その他のほとけさま

 

 中門 二天王像

阿形吽形 

 

  寛弘三年(1006年)に復元されたが享禄元年(1582年)の兵火により再度焼失したまま復興をみることはありませんでした。昭和59年(1984年)お写経勧進により中門が復興復元されました。昭和56年中門復興計画に伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像と判明しました。
 今回の二天王像は薬師寺創建時、すなわち白鳳再現をもとに時代考証し、中国西安大雁塔の門桓の両脇にある線彫の仁王像や法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考とした。彩色は平山郁夫画伯の監修のもとに東京芸大の諸先生に製作依頼した。紋様は中国敦煌莫高窟にある初唐様式のものを基本としながらも平成の創作的な美しさが加えられています。平成3年(1991年)仁天王像が復興復元されました。

 

 

吉祥天女像
  国宝 吉祥天女画像

 正月に修す法会を修正会といいます。そのご本尊が吉祥天女画像です。吉祥天女が幸福と平和と美の女神であることから、修正会には国の安泰、世界の平和と共に五穀豊穣を祈願する行法が営まれます。この画像は麻布に描かれたもので、色彩がたいへん美しく、独立した画像としては日本では一番古いものです。天平時代の貴婦人の姿そのままで、平成16年度は1月1日〜15日までと、3月27日〜4月5日、4月24日〜5月5日、6月1日〜6月13日、10月8日〜11月10日まで参拝することができます。

 吉祥天は奈良朝以前から流布された『金光明経』功徳天品や、奈良時代に盛行した『金光明最勝王経』の大吉祥天品に説かれる女神で、福徳豊穣の守護神として崇敬されました。奈良時代にはこの吉祥天女の前で年中の罪業を徴悔し、除災招福を祈るいわゆる吉祥悔過の本尊として祀られ、また宮中や諸寺の最勝会に奉懸された釈迦如来の一脇侍として迎えられることがありました。吉祥悔過は神護景雲元年(767年)正月、17日を限り諸国国分寺で恒例化されたのを初見とし、翌二年には吉祥天画像を諸国国分寺に安置させています。薬師寺では光仁天皇の御願により宝亀2年(771年)より毎年、遅怠なく行なわれ、のち寛平年中(889年〜97年)、薬師寺に八幡宮が勧請されてからは前七日は八幡宮で、後7日は金堂で修されたことが薬師寺の古記に見る事が出来ます。一方これとは別に当寺では天長7年(830年)から薬師寺最勝会が行なわれました。したがって本画像はこのいずれかの目的で作られたものと考えられます。

 

 国宝 慈恩大師画像

 慈恩大師は、名を大乗基あるいは単に基といい、尉遅氏の出身で、唐の貞観5年(631年)に生れ、17歳で玄奘三蔵の弟子となり弘福寺に入りました。永徽5年(654年)勅選により大慈恩寺に入り、訳経に従い、また楡伽.唯識の法をきわめ「成唯識論述記」をはじめ多くの訳経や注疏を作ったため、後世「百本の疏主、百本の論師」と唱われ、約25部120巻に及ぶ著作が伝えられています。永淳元年(682年)51歳で同寺餓経院に寂しましたが、法相祖師としての師の影響は大きく、その弟子に溜州慧沼、また撲楊智周が出て、撲楊に学んだ、わが国対賦によって中国法相宗は興福寺をはじめ南都法相宗の中に根をおろしました。平安時代に入ると、大師の忌日である11月13日に修せられる、いわゆる「慈恩会」の本尊として懸用されるようになり、その影前で慈恩をはじめ法相祖師達によって継承されてきた「成唯識論」の正統性を論義、問答しかつ試問されるというまこと南都教学ならではの講会法要に大きく発展しました。

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