玄奘三蔵院のほとけさま

 玄奘三蔵院の玄奘塔に祭られている玄奘三蔵の像は、故大川呈一仏師の手によって作成されたものです。右手には筆を、左手には経典を手にしており、天竺からの帰国後、経典の翻訳作業中の玄奘三蔵の姿をモデルにしたものとしています。

 

玄奘三蔵さまの生涯

 玄奘三蔵(602年〜664年)は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に盛名を馳せた仏法僧です。いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっているが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵法師といい、普通名詞なのである。したがって大勢の三蔵法師がいたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のこととなった。

 玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取られた。13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘と呼ばれることになる。玄奘は25、6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴した。修行が深まるにつれて百条を越す疑義が生じたが、それまでの漢訳の仏典では疑義が解けず、各地の高僧名僧も異なる自説をふりまわして、玄装の疑問を解くにはいたらなかった。このうえは、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立った。

 その中心となる目的は、瑜伽師地論と唯識論の奥義をきわめることである。当時、唐の国は鎖国政策をとっており、国の出入りを禁止していた。玄装はなんども嘆願書を出して出国の許可を求めるが許されなかった。
 玄奘は決心して、629(貞観3)年27歳のとき、国禁を犯して密出国する。玄奘の旅は、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを一人で旅して行った。三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩いた。

 帰路も往路と同じような辛苦を重ねながら、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて、645(貞観十九)年に長安の都に帰ってきた。この年は、日本では、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を減ぼした「大化の改新」の年にあたる。

 玄奘のインド・西域大旅行は、通過した国が128国、実に30,000kmに及んでいた。すでに、唐を発って17年の歳月がすぎ、玄奘はこのとき四十四歳になっていた。密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受ける。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどであった。

 玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭ける。皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けている。664(麟徳元)年に、玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際までサンスクリット経典の翻訳に打ちこんだ。それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若600巻をはじめ74部1335巻にのぼる。

 いま日本で読誦されている「般若心経」は、玄奘三蔵のこのときの漢訳本である。

 彼の翻訳は原典にできるだけ忠実であることを目指しており、玄奘より前の翻訳は「旧訳(くやく)」といわれ、玄奘以後の翻訳を「新訳」と称して区別され、この彼の仏典翻訳によって唐代の仏教興隆の基礎が築かれた。

 玄奘は帰国後、このように訳業に専念したため、唯識学の教学の研究と伝道は、一番弟子の慈恩大師に任せた。慈恩大師は姓を窺、名を基といい、十七歳のときに玄奘に見出されてその弟子となるが、豪放嘉落な性格の人物であったという。彼は玄奘から諸国の言語を学び、玄奘の訳経の手助けもしながら、唯識教学を研究して、その奥義をきわめている。

<寺沢龍 「薬師寺再興」草思社より転載>

 

 

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