伎楽について

    伎楽で使われる仮面について(総論)
    伎楽で使われる仮面について(各論)
    仮面を作ってくださった方々について

 伎楽は752年(天平勝宝4年)の大仏開眼の頃には一番の隆盛をほこっていました。しかし、雅楽の台頭や大陸からの新しい芸能の移入に伴い段々廃れてきてしまい、正倉院、東大寺、法隆寺等に伎楽面、装束や若干の文献類が残っているだけで舞振りや音楽などの正確な形は一切残っておりません。したがって、その復興には莫大な費用と時間をかけて行われ、東大寺大仏殿の昭和大修理落慶法要の際に1000年の時空を超えて復活するに及びました。

 奈良時代より現存する数多くの伎楽面や面袋、衣装等に記される墨書銘によっても、名称・作者・製作日・献納国・所属等を解明することができます。この方が文献よりも確実ではあるものの、すべての伎楽面に名称を決定することは容易ではありません。材質、技法、作風の問題など、正倉院に残る膨大な面を中心に、様々な研究調査がなされてきました。

 伎楽面の製作者は手本を見習い、細かい約束事に従い作面したと考えられます。その際に作者の技量や癖、材質の調達具合等によって多少異なる場合も.見受けられます。

 そこで、伎楽面の種類とグループ構成など簡単にご紹介申し上げたいと思います。

 

治道(ぢどう)

・治道(ぢどう)は行道の露払いで円錐状の帽了をかぶる老相面。

師子(しし)〜左〜と師子児(ししこ)〜右〜

・師子(しし)と師子児(ししこ)は仏法に帰依し仏菩薩に奉仕する。師子は四つ足、師子児は少年相の面。

呉公(ごこう)

・呉公(ごこう)は供養者で青年相面。

力士(りきし)〜左〜と金剛(こんごう)〜右〜

・金剛(こんごう)と力士(りきし)は仏法を守護する。単髻を結う壮年相面。

迦楼羅(かるら)

・迦楼羅(かるら)は天竜八部衆の一つで鳥相面。

崑崙(こんろん)

・崑崙(こんろん)は邪鬼のようなもので獣耳をもつ鬼相面。

呉女(ごじょ)

・呉女(ごじょ)は供養者で唯一女性の面。(5口用意されています。)

婆羅門(ばらもん)

・婆羅門(ばらもん)は高僧で剃髪。

太孤父(たいこふ)

 

・太孤父(たいこふ)と太孤児(たいこじ)は仙人のような老相と少年相の子。

太孤児(たいこじ)

酔胡王(すいこおう)

・酔胡王(すいこおう)と酔胡従(すいこじゅう)は冠帽をかぶる王様と赤色面の従事者。(酔胡従は6口用意されています。)

酔胡従(すいこじゅう)

 

 以上の14組23口が1つのセットとして伎楽で用いられます。この分類について確立されているのは近年発表された「正倉院伎楽面の分類的研究」成瀬正和著が最も妥当と考えられ、引用しました。その著者は従来なされてきた伎楽面の分類で不整合を指摘し、酔胡従と見なされている面にバラモンや太弧父が混入していたり、円錐状の帽子をかぶるのは太弧父ではなく治道であったり、治道といわれていた面が酔胡従であるなどの研究成果を発表されています。
 材質と技法もっとも古いものは樟製で、その後に桐や乾漆で作られました。木彫面は殆どが一材から彫出されますが、中には別材を鼻、耳、後頭部などに矧ぎ足す例もあります。乾漆面は三、四枚の麻布を漆で貼り重ね、表面を漆木尿で整形されています。彩色は黒漆や白色下地に施すものが一般的で、中には素地に直接彩色する例も木彫にみられます。頭髪や髭は墨で描いたり、馬の毛を付けたりもしています。口、鼻、口には貫通孔があいていますが比較的小さく、特に口などはがんらいの孔では見にくく内側から即席で広く削られ、左右の大きさが違う面も少なくありません。


木製を担当された稲田光胤氏(京都市)

 稲田氏は仏師であられますが、仏像とは全く違う伎楽面の製作を吉岡氏より依頼されました。ところが指定された納期までにはあまりにも時問がなく、問に合うかどうかわかりません。しかし吉岡氏は「おもいっきりやって下さい」とおっしゃるなど、もう迷っている暇もなくなり、休力的にも限界に来るほど根を詰め製作されたそうです。そして遂に一カ月程で九口の面を完成されたのです。
 面は寄せ木作り。材質はすべて会津若松の桐です。桐は軽くて良いのですが、刃物がとおりにくく苦労されました。正倉院の資料を参考にしての製作です。それら古代の伎楽面を見て稲田氏は、「やはり昔の人はすごいと思った。その作者自身がにじみ出ている。またその内面もすごい。」と熱く語られました。そして「薬師寺のお仕事をさせて頂いて木当に良かった」と懐かしそうにお話し下さいました。

 治道・獅子・獅子児・呉公・金剛・力士・婆羅門・太孤父・酔胡王 以上木製の伎楽面を作成して頂きました。


紙製を担当された明松政二氏(大阪府泉佐野市)

 東大寺は大仏殿昭和大修理の際、伎楽面を外国にて製作されました。その材質も紙ねんどを使っての復元でした。その後吉岡氏は演技のためにも軽い方がいいと考え、薬師寺の伎楽面復元には明松氏に、紙を使っての面作りを依頼されました。明松氏は紙すきが木職であられ、紙の細工を得意とされます。日本には擬革紙という紙を厚くした、いわゆる壁紙のようなもので筆箱や刀のさやを作る技法が伝わっています。明松氏はその応用を生かし、金唐革紙というものを考案されました。
 この技法を取り入れ、現代版の乾漆像ともいえる成り立ちの伎楽面が製作されたのです。作業の行程として、先ず石膏で見木の面の外側を型取り、その型の内側に紙を何層にも重ねていくのです。ところが、日本の面とは違い凹凸の多いアジア系の面は突出した部分の繋ぎが非常に難しく、とくに酔胡従の鼻には苫労されたそうです。面の厚さが五ミリにもなると、紙の渇きが遅く次の行程になかなか進めず、あせりもしばしばあったようです。様々な思い出話をお聞かせ下さり、最後に明松氏は「何はともあれ難関を克服できて良かったと思う」と、やはり懐かしそうにお話し下さいました。

 迦楼羅・崑崙・呉女(5口)・呉女従・太孤児・酔胡従(6口) 以上の紙製の伎楽面を作成していただきました。

 伎楽面の復元作業などされたこともなかったお二人の作家が、奮闘しながらも見事に完成させたお面は、これからも毎年玄奘三蔵会にて人々の熱い視線を子々孫々の代まで受け続けることでしょう。


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