なすべきか?なさざるべきか?西塔再建

  金堂落慶は、1967(昭和42)年の高田好胤管主の発願から、9年の歳月を経ての大願成就である。写経勧進のほうも、前年の1975(昭和50)年11月29日に、ついに発願の百万巻を達成していた。このとき、写経勧進が始まって7年半が過ぎている。すべてが大団円の慶祝のなかで、高田好胤師は大いなる苦悩を抱え込んでいました。
 高田好胤師が発願した金堂の復興は、薬師寺歴代住職が果たす事の出来なかった悲願であり、橋本凝胤長老の大願でもありました。しかし、この大事業は難問が多く永年その実現が見られなかったのだが、若くして管主に就いた好胤師は、凝胤師への報恩と寺への献身の道として、この再建を自分の生涯の責務としたのです。仏の加護を得て、金堂をなんとか復興したいという思いだけで、それ以上の堂塔の建立など考える余裕すらありませんでした。

 しかし、金堂の復興の見通しがつきかけたころから、寺の内外で西塔再建を望む声がしきりと上がっていたのです。しかし高田好胤師にしてみれば、金堂復興の大業を御写経勧進という苦難の道を選び、一時は、やはり駄目かと消沈したほどの道程であっただけに、百万巻を達成して金堂完成を遂げたその当時、文字通り精根尽きた思いだったのです。つまり、金堂以上のことはもともと考えてもいなかったことであり、金堂の後に西塔までを望むのは、我欲のこだわりの心になると思っていたのです。高田好胤師にしてみれば、 正直言って、400年を超えての薬師寺の悲願ともいうべき金堂再建を、百万巻写経勧進達成の上、無事成就していただいた直後のことでもあり、ほっとした気持も手伝って、また更に西塔を再建するということは、廻廊復興、ひいては薬師寺式伽藍そのものの復興にもつながってまいりますので、精神的にも体力的にも、その他諸々の面においても、どうしても自信がつかなかったと考えていました。

 西塔再建を望む人々の中で一番の急先鋒は金堂再建の陣頭指揮者だった西岡常一棟梁でした。西岡棟梁は高田好胤師にこう訴えました。

 金堂の再建だけでは片手落ちです。薬師寺は金堂を真中に東西両塔が並び立ってこそ伽藍全体のバランスがとれるんです。それに今、西塔の再建をしてもらわねば、材料や人材の面で時期を失してしまいます。(略)金堂の再建によってせっかく腕を磨いた大工達をこのまま四散させてしまっては、その腕が余りにも勿体なく、惜しい。
(高田好胤「甦った白鳳の姿」 機関誌『薬師寺』第50号)

 高田好胤師は次のように返しています。

 西岡さん、なるほど薬師寺の伽藍は両塔あって初めて薬師寺の伽藍や。まったくそのとおりや。そやけれども金堂を完成させることで私は精一杯や。塔も建てたいけれども、それは次の
世代に譲りますわ。(西岡常一『木のいのち木のこころ<天>』)

 西岡は、なんとしても高田管主に西塔再建の決意を促そうとして、好胤に対して「上申書」を差し出している・「薬師寺管主高田好胤猊下」と宛先名を記した、この584文字の毛筆書きの上申書は、「大工常一謹しみ伏して申上げ奉る」で始まり、「伏して願上げ奉ります西塔再建の大願を宣せられますことを」という言葉で結ばれていました。写経信者のあいだからも、「金堂が出来上がったからといってお写経をやめてもらつては困る」という声が高田好胤師に伝わってきました。このことについて高田好胤師は、

 何もお写経は薬師寺に限った事ではなく、1000円の納経料をおさめて貰わなくても、ご自分達でそれぞれお写経はしてもらえばよいわけで、それを説明しても、自分達のお写経する事がお寺の復興につながり、またそこに自分達の心が後々に残して貰い永代の供養をしていただける事が、大きな励みになるのだからと言われては、このままお写経勧進をやめるわけにもいかなくなってきた。それでもなお、西塔再建にむかって、私の宗教的エネルギー発火点に火をつける事はできなかった。

昭和51年4月1日から5月9日に及ぶ金堂落慶法要が進むにつれて、寺の内外から一段と西塔再建の機運が高書決断を迫られた。それでも私は慧に慧を重ね続けた。西塔再建に踏み切ってよいものかどうか、真夜中の境内を一人さ迷ったあげく、(略)真新しい金堂を仰ぎ、或いはその前にぬかずいて「南無金堂大如来」と涙ながらに苦悩をぶつつけておすがりした事も一再ならずあった。(前掲、高田好胤「甦った白鳳の姿」)


  こうして高田好胤師は、落慶法要の結願を翌日にひかえた5月8日の法要のさなかに、いつものごとく大導師として落慶咒願文を読み上げていたとき、無意識に「西塔再建、白鳳伽藍、成就発願、東西両塔、興隆仏法」云々と文中にない言葉を読み上げ、西岡棟梁が高田好胤管長の西塔再建の決心を直接に聞いたのは、39日間の金堂落慶法要が終わった後に開かれた慰労会の席でした。この会の席上において、高田好胤師は寺の関係者を前にして、正式に西塔再建の決心を伝えたのです。これによって薬師寺の「百万巻写経勧進による金堂再建」は「御写経勧進による伽藍復興」へとその名を変え薬師寺の伽藍は白鳳の昔の形へ復元される事になったのです。

 


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