西塔再建から伽藍全体復興への道

 1977(昭和52)年10月8日。西塔の起工式が挙行されました。その1年前の金堂の落慶法要の最終日を1日前に控えた1976(昭和51)年5月8日には高田好胤師は西塔再建を決意しそれを棟梁の西岡氏に伝えています。この起工式以後4年の工期を経て薬師寺式伽藍の特徴である二つの塔が奈良西ノ京の地に聳え立ったのです。さて、着工した翌年に薬師寺長老であった橋本凝胤師が遷化されています。

 結局、橋本凝胤師の亡くなったこの日、高田好胤師は福井県池田町の講演に出かけていました。その最中に、寺から急報が入って師匠の危篤が伝えられた。好胤は講演を終えて急ぎ足で帰途につき、福井駅から橋本凝胤師の入院していた病院に電話したときには、師匠はすでに息を引き取っていたといいます。この年の正月に、高田好胤師は新年の挨拶をかねて、病院に師匠を見舞っていました。

「長老、私もおかげでもう五十五歳になりましたで」
といいますと、師匠はどっと私のほうへ体を乗り出すようにしてもたれかかってきたものです。私に抱いてほしかったのか、私を抱きたかったのか、そのへんはわかりませんが、もうずっとものをいうのも不自由な状態でしたから、そうするのが精一杯だったのでしょう。そうすることで、「あとをよろしくな」という意志をつたえたかったのだと思います。
 また、亡くなる三日前、私は東京へ行くことになっていましたが、容態がおかしいというのでとりやめ、病院へまいりました。が、どうやら小康を得たようなので、一応寺へ帰ろうと病室を出かけたのですが、もう一度長老のかたわらにもどり、
「長老、長老さあん!」
と叫びますと、突然、「おう!」と返事をしてくれました。いつもより大きな声でした。それが嬉しくてたまらず、思わず長老に頬ずりをしていました。もうほとんど意識がないと思ったほうがいいと主治医からいわれていたのですが、その返事の仕方は単なる反射神経の働きだけではなかった、といまでも私は思っています。
 それからしばらく抱きしめて別れたのですが、それが私にとって永遠の別れとなってしまいました。(高田好胤『出会いと別れ』)
3月28日の夕刻、凝胤長老の密葬がしめやかにおこなわれました。釈尊は亡くなった父親の枢を肩に担いで野辺の送りをしたという故事にならって、好胤たち遺弟全員が凝胤の枢をかつぎ、薬師寺の境内をくまなくまわって最後の別れを告げました。夜8時半に出棺となり、集まっていた大勢の人たちが「般若心経」をとなえて、手に手にロウソクや松明をもって野辺送りしました。

 本葬は花会式も終わった4月9日に、故人と親しかった唐招提寺長老・森本孝順師を導師に迎えて執りおこなわれました。橋本凝胤師は、西行法師の「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」の歌が好きで、自分もかくありたいものだと生前語っていました。
 橋本凝胤師の本葬の日、空はよく晴れわたり、桜の花びらがしきりと舞い落ちていました。それはまさしく願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃に自分もかくありたいと願った通りに・・・。

 こうした、大きな別れも乗り越えて1980(昭和55)年8月に西塔は完成しました。塔に用いた木材は2500石、瓦は30000枚、和釘が7000本でした。落慶法要は昭和56(1981)年4月1日から5日までの間に行われました。前回の金堂の時と同じように全てのお写経縁者の皆さんに案内状を送付させていただき、結局15万人もの皆さんにお参り頂いたことになります。

 

 

 

 

 

 そして、落慶法要当日、その席で高田好胤師は西岡常一棟梁に驚くべき一言を語りかけました。

 「西岡さん、あんた、感謝状貰うのと違いまんねんで。あなたが『西塔建てたいからお写経なさって下さる方々へ管長から頼んでください。』と言ったんでっせ。あなたから、お写経をして西塔を建てさせてくださった皆さんにお礼を言いなはれ。」

 勿論、そんな席で普通はそう言う事は言いません。しかし、更に西岡氏はこう返しました。

 「左様でございまんなぁ」と言った後に「皆さんなぁ、私ここで毎日、西塔の仕事をさせて貰ってましたら名、すずめが飛んで来よりまして、『ちゅうもん、ちゅうもん(中門)』って鳴きよりまんねん。このままでは折角の金堂も東塔も西塔も裸だんねん。やっぱり門作ってな、荘厳を整えさせて頂かんと」

 つまり、伽藍の防災上の観点からも中門・回廊を整える必要があると力説したのです。これにより、次ぎは中門の完成を目指して伽藍復興事業は再び前に進み始めました。


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