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Contents Part1 伽藍焼失から第2次大戦後まで |
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Part1 伽藍焼失から第2次大戦後まで 室町幕府とはもう名ばかりとなってしまい、事実上、戦国の世と化していた1528年兵火で東塔を除く全ての堂塔伽藍が焼け落ちてしまいました。薬師寺の白鳳伽藍復興は歴代住職の悲願でした。勿論、奈良時代や平安時代のように天皇が強い権力を持って世の中を統治していた頃には、焼け落ちてしまった伽藍をすぐに再建するところだったのですが、既にこのころには再建するだけの力もなく以後72年間、お薬師様(金堂・薬師三尊像)は雨ざらしの状態を余儀なくされました。豊臣家が金堂の再建計画を立てて取り敢えずと言う事で仮堂にまつられる事にはなったのですが、同じ1600年には関ケ原の合戦で西軍(豊臣方)が敗れ、そして後の大坂冬の陣、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してしまい、爾来、370年近くも仮堂にまつられたままの状態が続いていました。 その頃、法要を行うにしても雨の日には傘をさして法要をおこない、晴れている日は薬師三尊像が日向ぼっこしているという有様で、これを見たアメリカ人が 『日本は文化国家だと聞いていたけれど、国の名誉ともいうぺきこの立派な仏像を、こんな粗末な建物に入れておいて平気だというのはどういうことなのか?日本人が薬師三薄をこういう状態にしておくのは物の値打ちがわからたいというよりも、それだけの力がないということだろう。それなら、アメリカがそれをしてやろう。何億ドルかかってもいい、この仏像にふさわしいピルディソグを建てるからアメリカに売ったらどうだ』 現代なら、日米間の国際問題にまで発展するような屈辱的な言葉さえも投げ掛けられるほどだったのです。(右上は1938年当時の伽藍の航空写真)
Part2 橋本凝胤師から高田好胤師へ住職交代 さて、1966年も暮れに当時、住職だった橋本凝胤師から高田好胤師へ住職交代の話しが何度か出たのですが、引き受ける引き受けないで何度か言い争いがありました。その理由については多くの著書により述べられているのでここでは割愛することにします。高田好胤師が住職就任を引き受ける有名なエピソードをここにご紹介申し上げます。 『好胤、この松の木、枯れよんのや』 と言い、が師匠の傍に立ってよく見ると枯れはじめた松の根元に、すうっとまっすぐに小さな若木が育っていた。凝胤がつぶやくように、 『松の木でも、わが枯れんとするや、若い跡つぎ、ちゃんと育てて枯れていきよんねんなあ』 といった。高田好胤師は内心、(そら、また始まったな)と思ったが、橋本凝胤師は一呼吸おいてから、松の木を見つめたまま 『おれはの、ワレ(おまえ)の一人立ちできる姿を、この目の黒いうちに、一目見て死にたいんじやがの』 としみじみとした口調で言ったのです。この時の事を高田好胤師は後日、振り返ってこういっています。 『あのときホロッとしたのが私の負けやったなあ。強いこといわはったら、なんぼでもあの人には私も強いことがいえたもの』 ホロッとした好胤は、「わかりました。あとあとのお導きをよろしくお願いします」といって、住職の引継ぎを承知しました。 Part3 晋山式〜御写経勧進による伽藍復興の開始高田好胤師が薬師寺の住職に就任し、橋本凝胤師が長老となったのは1967年4月1日の事です。そして高田好胤師の晋山式は同年の11月18日に行われました。高田好胤師は1800人の参列者の見守る中旧金堂のお薬師さまの前で『お写経勧進による伽藍復興』を誓われ、伽藍復興の歩みが正式に始まったのでした。
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