お写経勧進の開始


 1967年、高田好胤師は薬師寺住職(管主)に就任し、翌年、法相宗管長となりました。

oshakyou1.jpg (16379 バイト) 高田好胤新住職(当時)は就任とともに、薬師寺の積年の宿願である金堂復興の発願をおこないました。「薬師寺金堂復興奉行所」というプロジェクトチームが設置され、金堂復興事務局も設けられて、一山が結束して「昭和の金堂」の再建に向かって歩みはじめました。まず、一番の難問は「資金の調達をどのような方法でおこなうか」と言う事でした。当時、金堂建立のためには10億円の金が必要だといわれました。この金堂は、当時の薬師寺の年問収入の10倍以上の額でした。新しく建てる金堂は国宝や重要文化財でもなかったので、公費援助は得られません。奈良仏教の寺は檀家組織を持たず、宗派活動もしていないので組織的な信徒の寄進もありません。
 薬師寺の金堂復興についても、常識的には大口寄進を集めるのが順当な策であると考えられていた。事実、金堂復興費用の10億円を出してもよいというある大手の会社があった。その会社は年問何十億円もの宣伝費を使うので、そのなかから毎年1億円ずっ出してやろうというものでした。高田好胤師は、

  
「お堂のできるのはありがたいけれども私は、宣伝費でお堂が建ったとしても、昭和の日本人の名誉にはならんと思うのです。後世の人びとに、楽をしてトクをするようなことばかり考えていたのが昭和の日本人やなあと、思われたくありません」

と、この会社からの話は丁重にお断り致しました。そこで、写経勧進によって広く世問に浄財を求めるという方法を提案しました。
 その方法というのは、人々が納経回向料として1000円を納めて写経用紙と下敷きとするお経の手本を寺からもらい、写経したうえで経文の末尾に願文と住所・氏名を書いて寺に納める。薬師寺はその写経を本尊・薬師如来に納経して祈願したのち、新金堂完成後、堂内にその納経を収蔵して、金堂が存続するかぎりその人の累世の永代供養をつづけるというもので、現在も同じ形式で行われています。
 仏道において、経文を筆写する写経行は、信仰修行の一つとされています。古くから一部の寺では定期的に写経会が開催されているが、いずれも厳粛な作法をともなった厳かな行事としておこなわれていました。

 薬師寺の金堂を再建するためには10億円の資金が必要であり、納経回向料を一巻1000円にすると、百万巻の写経を得なければなりません。その為に、この方法は「百万巻写経勧進による薬師寺金堂復興」と命名されました。この百万巻写経勧進による金堂の復興計画に対しては、寺の関係者や周囲の人たちからは反対や危倶の声が強かったのです。oshakyou2.jpg (39749 バイト)
 聖なる殿堂には真心のこもった浄財が理想である。高田好胤師は副住職時代に「案内坊主」として十八年間にわたって三百万人を越す全国の学生生徒と縁を結んでおり、「好胤説法」の種まきが全国各地に根づいているはずである。全国を行脚してこの人たちを中心にして写経を呼びかけようと考えたのです。『一人が一巻とはかぎらず、何巻かを納経してくれる人もいるだろう。百万巻というのは百万人が必要ということではない。これからは大衆の時代である。高田好胤師には大衆性があり、その説得力が人々を惹きつけて動かす大きな原動力となっている。これだけの条件をなんとか生かせば、写経勧進で金堂を建てることは不可能ではない。』そう確信して、写経のサンプル・セットを作り寺の会議に提案しました。

 高田好胤師は
『「昭和の金堂」の建立はただ単に立派な金堂を建てても「一人でも多くの人びとの心の救い、心の喜びのお手伝いができなければ、仏さまはお喜びになって下さらないのではないか」』と考えました。写経によって人々の心のなかに信仰心が生まれ、その結果お堂も建つならば、本尊・薬師如来の御意に叶うことになるであろうと思い、百万巻のお写経勧進の道に進むことを決心しました。

 万巻写経勧進による金堂復興を寺の会議で決定した後、金堂復興事務局長の安田執事長(当時・現副住職)が中心となって、1年間をかけて具体的な実施計画の策定と諸準備がすすめられました。

 写経するお経の選択については宗派を超えて読謂されている、もっとも親しまれている262文字というお経のなかではもっとも短い「般若心経」と決まり納経回向料を1巻1000円(現在は2000円)としました。後年になって、子供用の大文字写経も用意され、さらに「薬師経」1巻3000円、「三蔵聖教序」1巻5000円も加えられました。のちに『三蔵聖教序』を廃して『唯識三十頌』1巻5000円が加えられました。送料は一件(巻数を問わず一につき200円の加算とした。(各リンクをクリックされますとお写経の申しこみフォームへジャンプする事が出来ます。)

  写経用紙は福井県今立町の岩野製紙に依頼しました。一枚ずつの手漉きで、虫のつかない永久保存のできる越前和紙です。また、写経用紙の下に敷くお手本の『般若心経』は、書家の田中塊堂氏に書写を依頼し塊堂は文学博士で日展審査員であり写経の歴史の研究と写経の実践にうち込んでいました。塊堂氏は、薬師寺からの依頼を受けた当時の感想をつぎのように記しています。

  その時は已に準備万端の交渉はほぼ出来ていたようであった。例えば第一に料紙は越前の紙漉場に、筆墨から装積に至るまで交渉済みであったので、配布すべき般若心経の手本の書写を乞われたわけである。もとより私も双手を挙げて賛意を表わしたのである(中略)やがてその印刷されたものを拝見するに、手本の外に下敷、それに心経の読み本を折帖とし、書了した時の返送する経筒まで添えて、至れり尽くせりの行き届いたものであった。これならば全く写経に経験のない者であっても、またいくら辺阪の地にあってもまだ写経がどんなものやらを知らない方にでも、独りで納得できるように思われた。
(田中塊堂「偉大なり写経の力」『薬師寺』第29号)

 ただ、寺の外部の人たちは、写経勧進で金堂を建てるなどとはおよそ絵空事でないかと語る人が多数でした。百万巻写経による金堂復興勧進をおこなうことが決まったとき、高田好胤師は思い立って大分県の耶馬渓にある「青ノ洞門」を訪れました。この洞門は菊池寛の小説『恩警の彼方に』の題材にもなりましたが、江戸中期の僧・禅海が人々のために断崖の交通の難所を30年の歳月をかけて、一人でノミ1本を使って堅い岩山を開削し、185メートルのトンネルを造ったのです。洞門には方向を間違って掘り進めたという跡も残っています。好胤は禅海の不屈の信念にあやかりたいと思ってやって来たのでした。彼は洞門の古いノミの跡の一つ一つに手を触れ、その手で合掌し、禅海一代の苦労に自らの決意をこめてお経をあげました。高田好胤管主は洞門のなかに立って、人の信念の尊さを思い、いかに困難な事業であっても不屈の信念があれば、いつの日にか必ず完成する日があるのだと悟らされたといいます。

 高田好胤師は、全国各地に写経勧進の講演行脚をつづけました。青年会議所、ライオンズ.クラブ、ロータリー・クラブ、ソロプチミスト、PTA、その他各種の人の集まりの場に出かけて行きました。月のうち、寺へ帰って晩ご飯を食べるのは四、五回程度で、勧進を始めるとき68キロあった体重が、54キロまで減ってしまいました。それでもまだ54キロも残っているではないか、というのが彼の思いでした。54キロにまで減ったとき、紀州白浜の講演先で倒れ、大阪・中津の済生会病院に二週間の入院の身となりました。そのときも、医者の止めるのもきかずに、約束を果たすために入院先から東京の講演会に出かけています。
 高田好胤師にとっては生まれて初めての入院でしたが、このときの病因は肝臓と胆石にありました。その胆石が三十年後になって、好胤管主の寿命に決定的な影響を与えることになりますが、このときの彼はもちろんそれに気づく由もありませんでした。

 薬師寺職員の谷口氏の運転する車で勧進に出かけるときは、選挙の街頭宣伝車まがいに「百万巻写経勧進による薬師寺金堂復興」と書いた白布を車に引き回し、用具いっさいを積み込んで遊説に出かけました。好胤管主は、百万巻を達成するために、一万回の講演をしようと発心していました。そのためにあらゆる機会をつくって講演会に、あるいは座談会にと、多いときには日に三回、四回の講演をこなしながらそれこそ文字通り「東奔西走」の毎日でした。周辺の人たちは忙しく走りまわる高田好胤師を見て、「好胤、矢の如し」と評されたほどでした。

 彼のこのような勧進活動の努力によって勧進巻数はしだいに増えていったが、それでも一年半を過ぎて、ようやく五万巻程度だった。百万巻という目標があまりにも大きすぎるために高田好胤師自身もこの進捗状態に不安を覚えていました。ただ、勧進の中心となって外部に顔を見せている高田好胤は、そのころ僧侶としては世間的に知名度が高くなっていました。彼は住職になる少し前ごろから、テレビに出るようになっていたのでした。
 テレビ出演によって、高田好胤師は世間に顔を知られ、その弁舌とユニークな発言でかなり知名度が高くなっていました。師はテレビでも薬師寺のお写経勧進のことをしっかりとPRしていた。テレビを見て、かつての修学旅行生たちが、「ああ、あのときの薬師寺の坊さんだ」と思い出す人も多かったようです。
 しかし一方では、このころから、高田好胤師に対して「タレント坊主」とか「マスコミ坊主」というひやかし半分な呼び方がされはじめていたのもまた事実でした。


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