西岡棟梁への白鳳伽藍復興棟梁就任を依頼
木材調達のエピソード
 

 西岡常一氏に白鳳伽藍復興棟梁就任を要請

 発掘調査によって金堂の基壇や平面規模、柱問寸法などがわかったが、立体の構造と規模や建築の様式はわからない。そのために、『薬師寺縁起』の記述や創建いらいの建物である「東塔」を重要な参考資料として、なんども委員会が開催されて意見が交わされている。この建築設計委員会は建設委員会に発展した。1971(昭和46)年10月以来、金堂完成までのあいだ、毎月1回、合計50回を超える建設委員会が開かれ、設計上や施工上の問題点を詳細に討議しながら建設工事が進めらました

 金堂の設計監理技師には吉岡勇蔵氏が就きました。彼は古代建築の生き字引ともいわれた経験豊富な奈良県庁の技師でした。
 建築工事の施工業者は池田建設に決まりましたが、白鳳様式の薬師寺金堂という木造の大建築であるため、古代建築に精通した宮大工の棟梁が必要であり、また大勢の宮大工も集めなければならなりませんでした。このころすでに日本にはそういう経験豊富な腕のよい寺杜大工は少なくなっていました。
 法隆寺の昭和大修理に長年かかわった人々は、そのあたりの事情を熟知していました。その人々が一致して推挙したのは、当時の法隆寺大工棟梁だった西岡常一である。彼等は法隆寺で西岡と長年ともに解体修理の仕事をやってきた仲であり、西岡の技量と見識をよく心得ていましたので、彼を高く評価していました。

 そこで長老の橋本凝胤師は西岡常一氏を薬師寺に呼んでこう頼みました。

「法隆寺の大事な仕事、みな終わったやろ。おれとこへ来て金堂をやってくれ。金堂はおれの長い間の念願やねん。太田(博太郎氏)に聞いたら、もういまではこんな金堂の復元をできるやつはおまえしかおらんというとる。とにかく来てくれ」

 西岡氏はそれまで薬師寺とは無関係でしたが、橋本凝胤師とは顔見知りでした。もともと法隆寺の佐伯定胤管長の弟子でもあった橋本凝胤師は法隆寺に出かけることもあり、法隆寺の壁画焼損事件のときには師匠の定胤の手伝いで半年ほど法隆寺に通っていいました。それで西岡氏と話をすることもあったのです。
 薬師寺から生駒昌胤執事が使者として法輪寺に赴き故・井上慶覚和上の了承を得て、また、法隆寺ににも使者が立って西岡氏が薬師寺白鳳伽藍復興の棟梁に就任する事についての了承も得ることが出来ました。これによって西岡氏にはこれより亡くなる1995(平成7)年までの25年間、つまり4半世紀の間薬師寺白鳳伽藍復興にご尽力頂く事になったのです。


上図:西岡氏のノートの一部分


 木材調達のエピソード

 そして、その頃、もう一つ大きな問題が持ちあがっていました。それは木材の調達でした。そのおり、台湾から「檜を提供したい」というオファーがありました。しかし日本国内で木材を調達できないこと、それを非常に哀しく思っていただけに、劉洲松さんの申入れは胸が衝かれるほど嬉しかったのですが、それでも「台湾といえども外国の木は使いたくない。日本の木でやりたい」と思っていたのです。劉さんの好意は有難いけれどもどうしても日本の木で建てたかったと、高田好胤師は回顧しています。

 そこで沖縄へお参りに行ったときに台湾まで足をのぼしたのです。
 高田好胤師はお断りするつもりで行きました。しかし、高田好胤師は劉さんと逢っているうちに「台湾にこそ日本人の心が残っている、その木を使うことこそ金堂復興にふさわしい」と思い、台湾の木をいただくことを決意されました。はじめ、その木は1972年(昭和47年)3月に薬師寺へとどくという約束でした。それが御存知のように当時、中東問題が非常に難しい情勢でした。もしかすると台湾から木を送りだせないような事態にたるかもしれないということになりました。それがどうでしょう、1972年(昭和47年)3月という約束が、1971年(昭和46年)8月20日には全部とどいたのです。それも樹齢2600年、釈尊の時代、神武天皇の時代の木が300本です。若い木でも1000年はたっております。
 昭和47年(1972年)3月という約束の木が昭和46年8月20日に全部とどいたという裏には劉さんやその会杜の人たちの大変な苦労があったのです。

「いくら何でもそれは無理です」

 というのが会杜の人たちの意見だったそうです。八月中に問に合わすためにはほかの仕事を全部ストップしなけれぱならない。それではほかのお得意さんへの義理を欠くことにもなるし、第一採算に合わない、そういうことで大分動揺があったらしいのです。そのとき、

「……どうか仏さんのお仕事のお手伝いを第一にしてもらえまいか。私に対する親孝行だと思ってそうしてもらえまいか」

といったのが当時77歳になられる劉さんのお母さんだったそうです。こういう仕事ができるということは有難いことではたいか、というお母さんの願いに劉さんの心は決まりました。会杜の人たちも杜長に親孝行をさせてやろうじゃたいかということで、ほかの仕事は全部ストップ、それで8月中に材木が薬師寺にとどくことができたのです。
 その上、有難いことにこの木はお堂に使われる木だということで、作業中、木に足を掛けないということを皆が誓ったというのです。以前には日本でも菜種油をつくるとき、これは仏さんの灯心になるのだから足で踏んではいけないといわれたものだという話を年寄りから聞いたことがあります。また最近いただいた中山徳次さんという老農業歌人の歌集に、

御仏の灯明となる菜種なり足にて踏むなとやさしの母は

という歌があるのを嬉しく拝見いたしました、そういう精神は今日まだ台湾で生きているのです。また、この材木の梱包たるや、まるで神仏を扱うがごとき丁寧さでありました。・・・薬師寺の金堂はそういう心をいただいてやがてでき上るのです。

 そのような苦労の果てに送った木だけに劉杜長も心配だったのでしよう。1971年(昭和46年)10月、わざわざ見とどげに来られました。そして、無事にとどいているのを見ると高田好胤師の手をぐっと握り、「管長さん、有難う」といった途端一大粒の涙をはらはらと流しました。劉さんは高田好胤師と同じ1924年(大正13年)生まれで、そのときの数え年48歳。その大の男が男泣きに泣き、涙の中から出た言葉が、

「家門の誉れです」

というものでした。戦後、目本では絶えて久しく聞くことのたかった「家門の誉れ」という言葉を台湾人の劉さんから聞いたのです。一世一代の親孝行ができました、これも仏さんのおかげです、と泣き崩れるのです。そして昭和46年(1971年)12月一再び管主は台湾を訪れました。二千年、二千五百午雨を降らし、風を送って樹を育ててくれた台湾の天の神、地の御魂に感謝のお経をあげてきてほしいと寺の人に頼まれたのです。高田好胤師は喜んで渡台しました。劉さんには勿論一御母堂にもお礼をいい、御先祖の供養もさせてもらいました。工場にもまわり会杜の人たちにもお礼をいったあと、山へ入って報恩謝徳の植樹法要をいたしました。私たちがいただいた樹が300本だったのに対し、植樹で台湾の大地にお返しした樹は30本でしたが、法要のあいだ中、私と同行した人カも台湾の人たちも声をあげて泣いたのです。山峡に流れる清い鳴咽の唱和ともすれば高田好胤師のお経が途切れがちになるのもとうしようもおりませんでした。

 ところで、植樹法要の終ったあとで劉さんは高田好胤師にこう仰ったのです。

 「管長さん、あたたが台湾といえども外国の木はいらんとおっしゃったことは私も知っております。けれども、私も小学校のときは管長さんと同じ読本で"ハナ、ハト、マメ、マス"を勉強しました。私たちは兄弟たのです。他人だと思わないでください、尊敬と親しみと愛情で送った木なのですから」

 そういう気持で送った木だから、どうか外国の木だとは思わないで立派な金堂を復興してもらいたいというのです。と仰ったのでした。

 薬師寺によくお参りされる今治市の材木会社の社長、藤本薫さんが商売柄、どんな材木で金堂を建てるのか一度見せてもらいたいとこの材木を見に来られたことがあります。そして劉さんが送ってくれた材木を見ているうち思わず拝んでしまい、「私は四十年問、この仕事をやっているけれども、素人の管長はんに負けました」というのです。「これだけの木をいま私たちに買いものせいいわれてもようしません。一銭でも安く買いたい、一銭でも高く売ろうという気持があってはこれだげの木は揃いません。五倍、六倍、それ以上の犠牲がたけれぼ、いまどきこれだげの木は揃うものではない。管長はん、これは奇跡でっせ」と語る藤本さんの眼にも涙が溢れていました。

 もっとも劉さん自身は一度も損得を離れてやりましたなどということはいっていません。ただ、こういったことはあります。

 「もう一つ金堂を建てるから、これと同じ木を揃えてくれといわれてももう台湾でもいまはむつかしいです」

それだけしかいわなかったのですが、劉さんがどんなに犠牲を払って木を集めたかを雄弁に物語る一言でした。


次のページへ進む
第2章西塔再建へ進む
第1章最初のページへ戻る
伽藍復興のあゆみTOPへ戻る。