起工式からその後

 落  慶  法  要


   起工式

 1971(昭和46)年4月3日、薬師寺歴代住職の悲願であった金堂再建を宣言する起工式が盛大に執り行われました。

  雲一つない起工式。昭和の人たちの心を集め、薬師寺金堂を復興しようという私どもの願いは着カと進み、1971年4月3日に盛大な起工式を挙行しました。
 
 金堂復興の起工式は、一番心配されていた天侯もその日はまったくの晴天でした。前日まではぐずついた天気で関係者を心配させていても当日になると文字通り抜けるような好天になるのです。これも神仏のお加護であり非常にありがたいモノだと思いました。
 起工式当日に集っていたお写経勧進はまだ18万巻でありましたが、皆さんのおかげでようやくここまで漕ぎつけることができました、とその眼で見てもらいたかったのでした。それゆえ招待状の書出しを「拝啓」でもなく「謹啓」でもなく、「報恩感謝」としたのはそういう心のあらわれでした。。
 だげど、薬師寺の受入れ態勢は5000人が限度だったといいます。無理をして不祥事があってはそれこそ申し訳ない。それでやむなく抽出式で御招待したわけです。
 けれども、薬師寺としましてはその5000人を招待するのにもわざわざ土地を整地し、会場をつくったのです。普通なら金堂の前でやるべきですが、そこではとても5000人を収容しきれない。まして伽藍の一木一草といえどもそのために抜きたくない。そういうことでわざわざ会場をつくり、当日を迎えたのですが、5000人のつもりが結局15000人の御出席をいただきました。あとからあとからひきもきらたい善男善女の列ができていました。

 ざあんげ、懺悔…

 起工式は『涅槃交響曲』などの作曲で知られている黛敏郎氏の清朗な司会により開幕いたしました。観世喜之師の百華能『石橋』奉納にはじまり、鐘点打、僧侶の入場、そして高田好胤師が「起工宣言」をします。

 「本日、昭和46年4月3日、この吉日をトし、薬師寺金堂復興の起工をいたします・…」

 この起工式の間、高田好胤師は次のようなことを考えていたそうです。

 思えぱ私が昭和10年、薬師寺に入寺して以来、橋本前管主やまわりの人々から「金堂だけは何とかせにゃ」と耳にタコができるほど聞かされていたことがやっと実現のはこびとなったのです。15000人の参会者を前にして壇上に立ちたがら私の胸にはいろいろな感慨が去来し、こみ上げ溢れ、実は何をいっているのか記憶に定かでないのです。
 薬師寺は天武天皇が皇后の持統天皇の病気平癒を願って発願されたお寺でありますが、それ以来、昭和45年で1290年になります。天武天皇の祈りは結実し、皇后の病気はなおりますが、その数年のち天皇の方が世を去られました。
 話がやや横道にそれますが、天武天皇といえぱ『万葉集』で額王女王(ぬかたのおほきみ)とのロマンスで知られ、また壬申の乱の英傑であり、『古事記』『日本書紀』の編纂に着手した天皇であることは歴史で習っていると思いますが、同時に大変宗教心に篤い方でもあります。

 伊勢神宮を20年に1度造営することに決められたのも天武天皇ですし、家庭内に仏壇を設け、御先祖を供養することにしたのも天武天皇です。西暦にして685年の3月27日、天武天皇は仏壇を家庭生活の中に祀るべく詔を出されたのです。私たちがいまここにあるのは父母をはじめとする御先祖のおかげである、思い上ってはいけないのだ、家族が一つ心になって感謝しようということ、つまり家庭生活の中での宗教的しつけの養いを教えてくださったのです。そういう天武天皇の意志を継いで次に即位した持統天皇が薬師寺を完成されました。ですから薬師寺は謂わぼ天武、持統の御夫帰愛の結晶ということができます。
 それで天武天皇発願以来、1290年目にあたる昭和45年に起工式をしたかったのですが、それが都合でのびたわけです。だけど1300年目までには確実に新金堂を完成させることができます。そうたれぼ戦国の戦火で焼いて以来、雨もりのする旧金堂に御不自由をしていただいた薬師三尊をはじめて新しい金堂に迎えることができるのです。
 「こんな立派た仏さまを、こんな粗末な建物に入れておくなんて、何と日本人は心ない国民なんだ。何とものの値打ちのわからない国民であろうか」
などと国の辱しめを受ける言葉をもいくたびか胸に受けましたが、そうした口惜しい思いもやがて昔語りになって行くことでしょう。
 そういう思いが壇上に立つ私の胸を去来し、私は高く澄みわたった空を見上げたがら、
「やっと……やっと、ここまで来ました」と眩いていました。

やがて「ざあんげ、幟悔」という掛声が会場の一角から湧き上ってきて。

「ざあんげ、幟悔、六根清浄・・・・・・六根清浄!」

新金堂に使われる材木の曳木です。何組も来る曳木の中には鏡山親方(元柏戸)、中立親方(元栃ノ海)に先導された裸のカ士衆の姿もありました。
「ざあんげ、繊悔、六根清浄!」
その大合唱が広い会場を圧します。

 それから全山の僧侶、それに全参会者によって『般若心経』が唱和され、起工式はいよいよクライマックスに達します。その中で私が何日間かかかって書きました『般若心経』の大写経が披露され、最後に署名し、そして両掌にたっぷりと朱肉をつけ、手印を捺します。力一杯両掌を押しつける--その瞬間、すべての物音が消え、彼はまったく寂静の世界にいるように思えたといいます。大勢の人がいる。だが、何も聞えない。ただ、春の微風に緑の葉を揺るがしている伽藍の樹々の上に一際高く蒼空を貫くようにして鋒える三重塔の姿が、音を喪った閑寂の世界に印象深く映りました。
 求むれぼ求むるほど菩提への道はいよいよ遠くなる、されどこの道を行く〜彼が百万巻写経で金堂復興を決意しましたとき、「一人一人に訴えかげ、その写経の納経料によって資金を集めるたんて大変や。もっと簡単な方法があるやろ」という批判はありました。事実、この運動は大勢の人の大変た協力によって支えられています。しかし、彼は近道はしたくなかったと言います。遠い道を来たからこそ、いますでに三十数万の人たちが「心のオアシス」を掘りあてる浄業のお手伝いをさせてもらうことができたのであろうと思います。
 高田好胤師の幼友達である青山茂氏(当時、毎日新聞学芸部副部長)の文章を紹介したいと思います。子供のときから彼を知っている青山氏の眼にこの起工式が、そして起工式にいたるまでの道程をどのように映っていたか。御一読下さい。


 和46年4月3日、快晴。

 薬師寺の広い境内を埋めつくした群衆にもまれながら、私は中央の壇上でいま1人の偉大な友人が、まるで大地にひれ伏して祈るような姿で『般若心経』百万巻写経記念の大写経の衡立に真赤な手印を押す後ろ姿を見守った。群衆のざわめきは消え、彼とたった2人で対し合っているかのようなしじまの中で、一瞬、時の流れが静止する。そして、しぽらく静止していたそのうしろ姿が、小刻みに震えているのがわかった。彼、薬師寺住職・高田好胤の胸底を激しく突き上げて
いるものは金堂復興への異常なまでの情熱と、これだけの群衆を集めた晴れがましい起工式にこぎつけた感激との2つの大きな渦であろう。だが、そのうしろ姿の肩のあたりに、偉大な人間になるために、1人の男が背負わねぼならない厳しい孤独を見逃すわけにはいかない。ほとんどの人には気付かれなかったかもしれない、その"影"を、私は晴れがましいその盛儀の中で見つめた(中略)。

 第2次大戦の末期、私たちはそれぞれに軍隊生活を経験した。終戦後1年で中国から復員してきた私を、彼はわがことの様に喜んでくれた。精神のよりどころを失った青年が何かを求めて必死に時代を論じ、日本の将来を語り合った。終電車がなくなると、彼のすすめでよく一緒に寝たものである。その時、私はまだ中国大陸から持って帰った済癬が治らず、全身吹き出ものとウミだらけだった。そんな私に、夜遅くなると「オイ、きょうも泊まれよ」と、彼はにこにこして語りかけてくれた。その時はむしろ、それが当然だと思っていたけれども、それは語り伝えられる光明皇后が癩患者のウミを吸ったという故事にも相当する、と私はその後ひそかに思っている。
 勿論、彼はこのことについてはひとには何も語らない。
 近在の青年からさらには修学旅行の生徒に語りかける生活が、彼が副住職になってから後も続いた。全国から集まる高校生の心の中に種を播くんや……というのが口ぐせである。だが、副住職がいつまでも案内坊主をしていてよいわげがない。副住職には副住職なりの任務がある……というのがこちらの主張であった。そして最後に彼は「それは観念と信念のちがいや。ワシは信念でいくわ」という。

 この修学旅行生への案内で、彼は何百万人もの若者に接したことになる。若者に目本人の心を説き、一粒の種を投じた。その反面、彼白身の心に若者たちが投げかけた数百万粒の種がずっしりと重く実ったことが、どれ程彼の心の糧となったことか。それが現在もさまざまの芽をふいているはずだ。

 金堂復興にも私は反対した。伽藍が栄えても仏法が減びてはなにもならない。無理して金を集めようとすると、より多くの貧しい庶民の心を離反させるというのが反対の理由であった。ところが『般若心経』の百万巻写経は、この精神の離反をくい止めたぼかりか、新しい百万人の連帯をも生むことになった。"信念"がめでたく勝ちそうである。

 15000人の群集の熱気の立ちこめる起工式の式場で、いま薬師寺に新しい時代の始まりつつあるのをひしと感じた。そして、その新しい薬師寺が、信念の衣にすべてを包み込んだ一人の男、高田好胤のもろ肩にかかっているのを、雄々しくもいたいたしい英雄譚の絵巻を見る思いで凝視したのである。
(『題名のない音楽会』般若心経レコード・ジャケットより転載)



  起工式の日、手印を捺した高田好胤師の汚れた手に大勢の人が群がり寄り、次から次へと握手を求めてこられました。どれほどの人たちの手を握ったのか覚えておりません。しまいには手が痛くなってきましたが、それは彼にとって心にしみ通る有難い痛さでした。
 最後のお一人と握手し終ったときは、起工式が終ってすでに二時間近くたっておりました。境内はすでに春の黄昏につつまれかけており、その薄暮の中を去って行くその方のうしろ姿をいつまでも合掌で見送ったといいます。

 さて、その起工式の後に本格的な復興工事に突入しました。


 その工事もかなり難渋したのは、言うまでもありませんでした。先頁で述べた通り木の調達の問題や宮大工を募る事などそれは問題が山積していました。
 写経勧進と並行して、金堂の建立は1972(昭和47年)3月から基礎工事が始まり、その後の工事は予定どおり順調に進捗して、1973(昭和48)年4月8日の薬師縁日に立柱式が、同年12月8日の薬師縁日には上棟式がそれぞれ挙行されました。いずれも写経者を中心に大勢の人たちが集まり、式会は厳かにして華やかに執りおこなわれました。この年の8月8日に、写経勧進は50万巻を達成しました。
 薬師寺金堂は1975(昭和50)年7月に遂に完成しました。1528(享禄元)年に兵火によって焼失し、1600年に豊臣家の手によって仮金堂が建てられて以来375年経って漸く再建された白鳳様式の本格建築の新金堂は、二重二閣入母屋造りと呼ばれる二階建て、延べ面積約530平方メートルの極彩色の建造で、平面の長さは正面が26.6m、奥行き15.58mで、高さは20.42mあり、普通のビルの高さでいえば7階建てに相当する昭和の日本最大の木造建築物です。調達用材の総量は3400石、それ以外にも屋根瓦55183枚。柱は直径62cm、長さ6mの芯去り材ものが22本、上層部の柱は直径54cm、長さ4.6mのものが14本使われました。小斗には割れを少なくするために国内産のヒノキ、裳層には水に強い米国ヒバも使われました。

 西岡棟梁のもとに37人の宮大工が集まり、大工延べ人数は15000人におよんだ。その他にさまざまの技師、人夫5000人、総数30000人が動員された。1975年の7月、遂に金堂が完成し1600年から数えておよそ380年後に漸く、お薬師様をお祀りする本格的な金堂ができあがり、1976年4月1日から始まる39日間の金堂落慶法要へと移って行くことになります・・・。

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落慶法要

 1976(昭和51)年4月、薬師寺は遂に新しい薬師三尊の住家としての金堂の落慶法要を迎えることになりました。この法要は薬師寺史上最も規模の大きい法要として今後の歴史に名を残すものです。薬師寺ではお写経に関わった全ての人々に法要に参加して欲しいということで、30万通もの招待状を送付しました。1976(昭和51)年4月1日から5月9日までの39日間にわたって毎日、法要と管長である高田好胤師の法話がおこなわれ、35万人とも45万人ともいわれるほどの人々がこの落慶法要に集まりました。会期の39日間に53000巻ものお写経が勧進され、また高田好胤師の著書へのサインが10000冊を超えたといいます。このときの金堂落慶法要の盛大さは、薬師寺の歴史に確実に残るものとなりました。
 主な法要は4月1日から5日までの間に行われました。この金堂落慶法要は奈良の寺院に伝わる伝統的な行法で行われています。「庭儀」とう堂の前庭に舞台を組んでおこなわれるものです。極彩色に輝く壮大な新しい金堂の前に二段の広い舞台が築かれました。

 4月1日の落慶法要は午前10時に合図の撞鐘があり、11時に会奉行、稚児・父兄260名、舞人・楽人・十二神将に扮した人たちと僧侶16人に先導されて、開眼大導師の高田好胤管主が150mの長い式衆行列を連ね、境内を埋めつくした3500人の招待客と3000人の一般参拝者が見守るなか会場に入りました。
 高田管主が金堂前の中央舞台上段の中央に着座すると、鏡山親方(元横綱・柏戸)たちが、完成したばかりの鐘を二十一回撞いて落慶法要の開始を告げました。

 法要は中央舞台において、児師行法から始まり、舞楽「振鉾」の奉納、伊勢神宮・春日神杜・宇佐八幡宮の三杜の御神火による「大灯籠点火の儀」、「御鍵納めの儀」を終えて、新しい金堂の扉を開ける「御扉開きの儀」がおこなわれました。
 鍵納めの儀で、金堂の鍵が西岡棟梁から信者である女子中学生に渡され、さらにそれが高田管主に渡されました。ついで堂童子が管主からその鍵を預かって金堂の扉を開けに行く。会奉行の「お扉開き!」の掛け声を合図に、黒烏帽子・白装束の宮大工の白丁たちが堂の前から「ヨーツ」と声をあげると、堂内に控えた白丁たちから「オーツ」と応える声が聞こえ、正面の扉が静かに開かれて、次第に明るくなるにつれてお薬師様のお姿がはっきりと見えてきました。この間、舞台では舞楽の演奏と少年の舞いが演じられました。
 つづいて、「昇神の儀」と称する、金堂屋根の頂上左右に飾られた鴫尾を覆った白布を解き、金色に輝く鴎尾(しび)を顕わす儀式が、黒烏帽子に赤衣の正装束の西岡棟梁と宮大工の白丁たちの歌い声と所作によっておこなわれました。高田好胤師が第導師としてお薬師様の前に着座して「本尊開眼の儀」に移り、その後に「献灯の儀」、「納経の儀」や裏千家家元による献茶、池ノ坊家元による献華などが雅楽と舞楽を背景にして荘厳に営まれました。終盤近くで僧侶の「般若心経」の読経に、参会者全員の大唱和があり、黛敏郎作曲、東京交響楽団演奏による『心経カンタータ』が伴奏として流れ、慶讃文と祝辞などが続いて14時ごろまで法要が続きました。

 晴れて、薬師寺金堂は450年ぶりに奈良西ノ京の地に再び建ったのです。それも、今度は創建当初やそれぞれの天災、放火などで焼け落ちた後などのようにに天下国家の力ではなく、お写経をしてくださった皆様を始めとする信仰の力で再建されたのです。これほどありがたい事は無いと思います。

 金堂が再建され人々の間には西塔再建の話しも出始めました。しかし、西塔再建については高田好胤師は必ずしも気乗りしていたわけではなかったようです。これ以降につきましては第2章の西塔再建で述べて参りたいと思います。


















 
 


落慶法要での様子


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